「聖橋から檸檬を投げる」光景を描写している小説は何だったか、なかなか思い出せなかった。
どうも、それは間違いだと気付くのに、相当の時間がかかっていた。
卒業前最終試験を終えた高校3年生に、現代文と、古典文の授業をしなければならない。幸か不幸か、シラバス上は、もう義務を果たしているので自由に使える3時間があるという訳だ。
大学に進学していく (中には専門学校も就職もいる。) 生徒への国語の
授業に、このフレーズを含み、青春の匂いのする文章によって授業をしようと思っていたのだ。
或の日湯島聖堂の白い石の階段に腰かけて
君は陽溜りの中へ盗んだ檸檬細い手でかざす
それを暫くみつめた後で
きれいねと云った後で齧る
指のすきまから蒼い空に
金糸雀色の風が舞う
喰べかけの檸檬 聖橋から放る
快速電車の赤い色がそれとすれ違う
川面に波紋の拡がり数えたあと
小さな溜息混じりに振り返り
捨て去る時には こうして出来るだけ
遠くへ投げ上げるものよ
君は陽溜りの中へ盗んだ檸檬細い手でかざす
それを暫くみつめた後で
きれいねと云った後で齧る
指のすきまから蒼い空に
金糸雀色の風が舞う
喰べかけの檸檬 聖橋から放る
快速電車の赤い色がそれとすれ違う
川面に波紋の拡がり数えたあと
小さな溜息混じりに振り返り
捨て去る時には こうして出来るだけ
遠くへ投げ上げるものよ
「湯島聖堂・聖橋」、「君が きれいねと云った後で囓かじる」などに、
彼らのこれからの生活を重ねることがてきるであろう。
― もう、そんな環境はないのかもしれないが ・・・。
このさだまさしの詩句は、
た「檸檬」のアルバム・ヴァージョン
とある(Wiki.)から、文学性があることとしよう。
もちろん、これにも触れる。
まだ、2,3時限の授業に堪え得るだけの話材が整って
いないが、少し時間があるので大丈夫だろう。
古典文では、『伊勢物語』の第一段「初冠」を使っ
て、求愛の行為とSNSによるコミュニケーションについ
て話してみたいと思っている。