まる。
「不吉な塊かたまり」に心をおさえられるような憂鬱のなか、
京都の街をさまよう「私」は、寺町の果物屋に珍しく置いてあっ
と、その幸福感も消え、また憂鬱になる。
ふと袂の中の檸檬を思い出した私は、「本の色彩を
ゴチャゴチャに積みあげて」この檸檬で「試してみた
ら」と思いつき、また先ほどの軽やかな昂奮が帰って
来た。
手当たり次第に積み上げた画集でできた「現像的な城」の頂き
手当たり次第に積み上げた画集でできた「現像的な城」の頂き
した色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまっ
て、カーンと冴えかえっていた。
続いて浮かんだアイディアはそれをそのままにして
おいて何喰くわぬ顔で出ていくこと。それを実行した
私は、あのレモンが爆弾で、もう十分後には丸善が
「大爆発するのだったらどんなに面白いだろう。」と
愉快に想像しながら、京極を下っていく。
の不調や「神経衰弱のようないけない不吉な塊」は消えたのだった。
「投げる」のに行き着いた。「檸檬」ではなく、「みかん 蜜柑」だ。
『檸檬』は(原稿用紙14枚文)の『蜜柑』の約50年後 )
書き出しは、似ている。
ある曇った冬の日暮れ、「疲労と倦怠」を抱えた「私」
は、汽車の発車直後に入ってきた13、4歳の下品で不潔な
小娘を不快に思う。
数分後、小娘がなぜか窓をあけようとしはじめ、あいた時には汽車
がトンネルに入ったので、私は煤煙を浴びて咳き込む。
夕刊を読み出す。汽車はトンネルに入ったが、この汽車と、
平凡な記事ばかりの夕刊と、この小娘とが「不可解な、下等な、
退屈な人生の象徴」と思える。小娘が窓をあけようと悪戦苦闘
するのだが、私にはその理由がわからず、冷然と眺める。
汽車がトンネルを抜けると、踏切りの柵の向こうに頬の赤い
汽車がトンネルを抜けると、踏切りの柵の向こうに頬の赤い
3人の男の子が並んで立っていて、汽車を仰ぎ見ながら、手を
振って声を上げる。
その瞬間、「暖(あたたか)な日の色に染まっている蜜柑」
その瞬間、「暖(あたたか)な日の色に染まっている蜜柑」
が、五、六個、 子どもたちの上へ降ってくる。
これから奉公先へ行く小娘がその蜜柑で
弟たちの見送りに報いたのだ。
私の心にはこの瞬間の光景が焼きつけられ、
「ある得体の知れない朗かな心もち」が湧き上
がる。
小娘を見ると、私の前の席に戻っていて、
小娘を見ると、私の前の席に戻っていて、
あいかわらず三等切符を握っている。
私は、この時はじめて「疲労と倦怠」、
「不可解な下等な、退屈な人生」を忘れることができた。
蜜柑は投げられた。
「私」の人生は、納得させられた。