「泣いた赤おに」は、いつ読んでも読むたびに切なさや温かさ、様々な思いが波立つ童話だ。かつて小学校の教科書にも載っていた。
一方「私の青おに」は、「泣いた赤おに」に、もし続きがあったなら赤おにと青おには、どのように生きているのか、現代劇で描いたもの。
〈その後〉の赤おに(莉子)は負い目を抱えな
がら都に旅立ち、孤独な青おに(夏目)の方が町
にあえてとどまる。外見的には夢を叶えた赤おに
が、実は道に迷い、表向きにはうまくやっている
が周りに対してどこか鎧をかぶっている部分があ
り自分を生きていない。逆に、町に留った青おに
の方が新たな夢に向かって地に足をつけて生きて
いる。莉子にとっての「私の青おに」というのは
夏目だけではなく、故郷の田園風景や美しい自然
周りの人すべてなのだ。
その〈負い目を抱えながら〉には、2つあった。(二人の夢と、人間関係だったろうか、読者・鑑賞者に委ねたい。)
現代版に見る人と人との関わりの希薄さに、日頃の私自身がそのようであるかと、震えを覚えた。(シンプルとかクールとかに侵され、自分が傷つくのを恐れ、形ばかりの繋がりを広げてかえって不安の中にいる。)
山形には何故か愛着を持っていて、9月には、
館も見ずに帰っていた。今になって悔やんだ。
カットやラ・ランスの産地、亀岡文殊堂や安久津
八幡 神社、温泉・昭和縁結び通り商店街等が付く。
次回は見てくる。 役場前のナナカマド